アトリエだより2007-2008

アトリエだより (2008.12.10)

ドレスデンのシュトレン


ウィーンで親しくなった、ある優秀な日本人女性が、日本へ帰国して楽天市場にネットのショップをつくった。そのショップ、die Gasse (ディ・ガッセ=路地)では、ロウソクを中心に、ヨーロッパのお洒落な家庭雑貨の輸入販売をしている。すごい人気だという。

今、そのトップページ http://www.rakuten.co.jp/diegasse/ に「ドレスデンのシュトレン販売中」のお知らせが出ている。シュトレンは伝統的なドイツのクリスマスのお菓子(パン)で、ドレスデンがその発祥地。それだけでなく、ドレスデンのパン屋、菓子屋は、自家製シュトレンに「ドレスデン・シュトレン」と銘打つには、何項目にもわたる厳重な検定を受け、一定の基準に達していなければならない。

die Gasse のお知らせには、ご丁寧に「シュトーレンではありません」と断り書きがついている。さすがヨーロッパに詳しい人のことだけはある。だって本来シュトレンというお菓子を「シュトーレン」とあやまった表記で普及させているのは、世界広しといえど日本ぐらい。これは赤面する事態なのだが、一向に改められない。インタネットでは、「本場老舗のパン店のマイスターがつくる傑作 シュトーレン」などと書いてある。本当に本場のマイスターがつくるなら、「シュトーレン」であるはずがない。めちゃくちゃだ。die Gasse の女主人は正統派だから、日本のいわゆる「シュトーレン」でなく、本場の「シュトレンです」と、この菓子を由緒正しく表現しているわけだ。

ある時、このショップのシュトレンを買った顧客から、この店へメールが届いたそう。「シュトーレンだと思って間違えて(シュトレンを)買ってしまいました」って。

「シュトーレン」じゃなくて、「シュトレン」よ、と私はこの時期やっきとなって言っているのだが、こうした話をきくとめまいがしてくる。

die Gasse の「本場のシュトレン」は正味750g、賞味期限来年3月31日、価格¥3200。

日本の「シュトーレン」は白ネズミ2匹分ぐらいの大きさ(重量の表記がないんだから、こういうしかないの)で、すでにこのくらいの値段。それを考えたら、本場の正統「シュトレン」は高くはない。お試しあれ!

アトリエだより (2008.11.13)

11月7日の講演にはお忙しい中ご遠方からも大勢お集まり下さりありがとうございました!
All About の清水美穂子さんが↓のような報告を書いてくださったので、それをご覧下さい。

http://favoriteworks.air-nifty.com/breadjournal/

オーストリアのベーカリー・ヨアストのパンも空輸してもらうつもりでしたが、オーストリアの速達便を請け負っているDHLがパンの輸送を拒否したために送ってもらえませんでした。でも、今回は北海道小樽のエグヴィヴ、甲府のヴァルト、長野県栂池高原のシャンツェさんのおいしいパンを試食しました。そして和田うららさんの木苺のバターもありました。ご協力ありがとう。

エグヴィヴは、薪窯で焼いています。自分で薪を割り、乾燥させ、石臼で粉をひいて、丹野さんがたったひとりでパン焼きの全行程をこなしています。ヴァルトはドイツでパン焼きを習った渡辺さん(清水さんの↑のブログに登場)の焼く本格的なドイツパン。クリエイティヴな発想で、地元産の食材を取り入れるのもうまい。シャンツェは、プチホテル経営の傍ら、新井さんが地粉を用いて、森の実から酵母を作りパンを焼いています。

エグ・ヴィヴ
http://www.lares.dti.ne.jp/~fuente/tipasa/link/aigues_vives/top.html
ヴァルト
http://www.d-wald.com/company.htm
シャンツェ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~schanze/
http://bread-s.at.webry.info/
和田うららの黒パン普及振興会
http://kuropansan.web.fc2.com/

☆ アトリエだより (2008.10.17)

映画〈シロタ家の20世紀〉

 

 〈シロタ家の20世紀〉プログラム

ピアニスト、レオ・シロタを知る人は今でこそ少ないが、80年あまり前に来日し、今の東京芸術大学、当時の上野の音楽学校でピアノを教え、多くの弟子を育て、みずからも演奏活動をおこない、日本の音楽界に貢献した芸術家だ。かつてその弟子だった著名な人々も、多くがすでにこの世を去ってしまった。映画〈シロタ家の20世紀〉は、このシロタとその両親、兄弟、子孫をとおして、第2次世界大戦をまたぐ20世紀を省み、平和への願いを改めてわれわれに訴える秀作。岩波ホールでの上映は今月17日で終了したが、すでにさまざまな報道が出されているので、それを↓にまとめ、次の上映の機会には、さらに広まるよう、願っている。

そのまえに、そもそもこの映画に私が関心をもったいきさつを記しておこう。2003年9月のことだった。建築家の富田玲子さんが、ご主人林泰義氏を「鞄持ち」に任命し、二人でウィーンへいらした。「レオ・シロタを知っていますか?彼の映画を作るので、そのお手伝いをしているの。彼のウィーンの住いだったヴェーリンガー通り54番地へは、どうやって行くのかしら?」と。そして楽友協会や、ピアノ店べーゼンドルファーへも是非行って見たいと。1週間たつと、「これからウクライナへ行ってくるわ」と。そこがレオ・シロタの生まれ故郷だからだという。

それが音楽家であれ、詩人であれ、研究するにはまず、生まれ故郷の地を自分の足で踏むことが基本だ。生家があろうとなかろうと、貴重は発見があるはずだ。数日してかれらは満足そうに戻ってきて、たのしい予備調査の旅が終わったようだ。その後着々と映画制作が進み、完成。できあがった映像には、ウクライナの生まれ故郷も、ウィーンのシロタ家の住いがあった通りと番地も登場している。

この映画の企画は藤原智子、富田玲子、白井堯子。監督は藤原智子。制作はレオ・シロタ制作委員会、日本映画新社、助成は芸術文化振興基金、付記として、「故藤田晴子さんが文化事業のために遺された志をついで作られた」とある。この藤田晴子さんは、私の母校都立白鴎高校、元の東京府立第一高等女学校の先輩。この学校は、日本で最初に設立された女学校だから、当時は最優秀の女学生が全国から集まったのだそうだ。その1回生、青森出身の羽仁もと子さんから始まる卒業名簿には、名だたる先輩がずらっと並んでいる。藤田晴子さんと同級には三木睦子さんもいらっしゃる。その藤田晴子さんは49回生だった。

この映画の公式HPは http://sirota-family.net/index.html

映画のプログラム(発行・編集 2008年9月10日、「シロタ家の20世紀」上映委員会))は大変丁寧な編集で、読みごたえのある内容。これを読めば制作の背景や、その時代への理解が深まるだろう。

映画〈シロタ家の20世紀〉チケット

すでに報道された記事の中から、抜粋をここにご紹介しよう。

 

朝日新聞 2008.8.30 夕刊 

論説委員室からー遺産が映画になった 

戦前、若手の女性ピアニストとして将来を期待され、戦後は東大法学部初の女子学生。国立国会図書館に勤めながら、音楽評論も書き、最後は事務次官級の専門調査員になった女性がいた。

独、仏、英、伊の語学にも堪能で、絵を描き、文章も達者。こんな何でもござれだった藤田晴子さんの遺産の一部が映画製作に使われた。

ドキュメンタリー映画「シロタ家の20世紀」(藤原智子監督)がそれだ。9月27日から、東京神田の岩波ホールで上映される。

藤原監督は前作「ベアテの贈り物」で、日本国憲法に男女平等を記したベアテ・シロタ・ゴードンさんの功績をたたえた。今回の映画は、ベアテさんの父で世界的ピアニストのレオ・シロタ氏らユダヤ人のシロタ家の人々が、第2次世界大戦中の欧州でたどった過酷な軌跡を描いている。

藤田さんは、戦前から17年も日本に在住したレオのまな弟子で、7年前に83歳で亡くなった。遺産は文化事業に使って欲しい、と書き残していた。

法律家の父の留学で5歳から約6年間ドイツに滞在した。折りにふれて新聞に取り上げられ、46年の記事には「東大法学部の花」の見出しが躍る。専門調査員に任命された82年には「女性の役人として最高位にのぼりつめた」と書かれた。

華麗な経歴は、優れた資質と努力の証だろう。それで得た財を公のために使う。志の高い人だ。〈越村佳代子〉

日本経済新聞 2008.9.18. 

文化  20世紀を縁取る贈り物 

        日欧にわたるシロタ家の足跡に題材得た映画を監督

        藤 原 智 子 

「あの着物を着た子どもたちは私と弟です」

二〇〇五年一二月九日。パリ日本文化会館で私の監督作品「ベアテのおくりもの」(英語版)の上映後、一人のフランス人女性が名乗り出た。私は驚く以上に何のことか理解できなかった。

                           † † †

登場人物とパリで対面

ベアテとは第2次大戦前の日本で多くの演奏家を育てたユダヤ系ウクライナ人ピアニスト、レオ・シロタの一人娘、ベアテ・シロタ・ゴードンさんのことだ。少女時代を日本で過ごし、戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の一員として日本国憲法草案委員会に加わり、第二四条の男女平等などの実現に貢献した。米国の情報開示で日本国憲法とベアテさんの関係が一九九〇年代に明るみに出た後、元文相の赤松良子さん、岩波ホール総支配人の高野悦子さんらを中心にベアテさんの足跡をたどる映画づくりの機運が盛り上がり、私が監督に任命された。

名乗り出たフランス人女性は、私たちを前に「ベアテの従姉ティナの娘アリーヌ・カラッソです。レオ・シロタの弟に当たる私の祖父ピエールはアウシュヴィッツの収容所で亡くなりました」と語った。映画の中では女の子を「ティナ」と誤って紹介していた。

                            † † †     

膨大な写真と物語

アリーヌさんは翌日、膨大な写真資料を携え、日本文化会館に再び現れた。ピエールはロシアの大歌手シャリアピン、シャンソン歌手のミスタンゲットなどを抱えた大マネジャーだった。ピエールは兄レオの滞在先という縁で、一九三六年のシャリアピン来日にも力を尽くした。長兄に当たるヴィクトルはワルシャワで歌劇指揮者になったが、政治犯として投獄され消息を絶つ。その息子イゴールは連合国軍のノルマンディー上陸作戦にポーランド軍から参加し戦死した——。

アリーヌさんの話を聞くうち、私には一家族を超えた二十世紀の欧州史、ユダヤ人史、世界史が見えてきた。「またもベアテさんとシロタ家から贈り物が降ってきた。二十世紀に戦争や迫害で理不尽に亡くなったすべての人々へのレクイエムとして、もう一本映画を作りたい」と思い始めた。 

私が六〇年にデビューして以来九十本を超える短編映画を監督した。九五年以降は長編も手がけている。加齢に逆行して作品の長さは増したが、シロタ家の物語が節目節目に現れたことになる。

私とベアテさんとの出会いは四半世紀以上も前、八二年にさかのぼる。女学生時代から付き合いのある西澤春子さんがピアニスト園田高弘さんと結婚、園田さんの最大の恩師であるレオ・シロタの話を何度も伺っていた。八二年にニューヨークへ出かけた時、春子さんに「園田のLPを届けて欲しい」と頼まれ、ジャパン・ソサエティに勤めていたベアテさんを訪ねた。ベアテさんはいまでこそ八十台で日本語を話す姿も温厚だが、当時は五十台の働き盛りで迫力満点。ろくに話もできず、レコードだけ恐る恐る置いて帰った。

今回、アリーヌさんとの出会いをきっかけに生まれた第二作「シロタ家の20世紀」は二十七日から三週間、東京・神保町の岩波ホールで公開される。ヴィクトル、レオ、ピエールのシロタ家三兄弟の足跡を軸に、ウクライナの豊かな音楽土壌、米軍の影に埋もれたノルマンディーでのポーランド軍の痕跡、日本の憲法第九条の精神を顕彰したカナリア諸島の町などを丹念にロケしたドキュメンタリー映画である。

                           † † †

日本の音楽界に遺風

最初は自己資金の三百万円しかなく、見切り発車の形で撮影を始めた。〇六年三月のある日、東急東横線の車内で建築家の富田玲子さんと出くわした。そして「私のピアノの恩師、藤田晴子さんの遺産を預かっているが、映画に使ったらどうか」と提案された。

藤田さんは幼少期をドイツで過ごし、帰国後はレオ・シロタにピアノを師事した。その後、国立国会図書館専門調査員というポストに就くまで官僚の道を歩みながら、終生、音楽評論も続けた。

私も藤田さんと多少の面識はあったが「ベアテの贈り物」に出演し、シロタ先生の思い出をじかに語っていただく機会は逸した。代りに玲子さんが鍵を預かっていた藤田さんの部屋を訪れ、シロタ先生ゆかりの遺品の数々を撮影できた。

一つの家系を克明に描けば描くほど、大きな物語が広がる。新作が日本に端を発したのは事実だが、世界の多くの人々に触れてほしい映画だと考えている。(ふじわらともこ=映画監督)

朝日新聞 2008.7.24

ひと 日本に渡ったユダヤ人一族の歴史を描いた映画監督

       藤原 智子 さん(76)

レオ・シロタ。第2次大戦前、ナチスが勢力を増す欧州から日本に渡り、多くのピアニストを育てたユダヤ人だ。その一族の歴史をドキュメンタリー映画「シロタ家の20世紀」で描いた。

一族を最初に撮ったのは、日本国憲法の草案づくりにかかわったレオの娘ベアテのドキュメンタリー映画。05年、パリであった上映会に、レオの弟の孫が現れた。シロタ家の古い写真をたくさん抱えていた。「戦争と迫害の縮図。一族の運命をたどろう」と心に決めた。

底流には自らの戦争体験がある。1941年、ラジオが真珠湾攻撃を伝えた時、普段は物静かな父が大声を上げた。「ばっかなことしたな」。幼い心に帆船が芽生えた。好きな翻訳を続ける父は、家計に無頓着で、教師の母が支える面もあった。戦後、「両性の平等」をうたう新憲法に父は「これで我が家も男女平等だ」とおどけてみせた。ベアテが手がけた憲法24条である。

大学を出て映画会社に入ったが、子育てなどで中断し、現場復帰は48歳。初の長編を監督した時は還暦を迎えていた。1作目は自分が体験した学徒疎開。次作は関東大震災の混乱で軍部に虐殺された大杉栄の娘の人生に焦点をあてた。戦争などに翻弄される人びとにこだわる。

今回の映画は東京でも9月に一般公開される。「これまでの集大成の作品であり、すべての戦争と迫害の犠牲者のためのレクイエムです」 

                           文・写真 金井和之

アトリエだより (2008.10.14

柳沼重剛先生

ウィーンから帰国すると、1通の封書が届いていた。日本の現代屈指の古典学者、柳沼重剛(やぎぬましげたけ)先生の訃報だった。古代ギリシャやローマの、つまり今は死語となった言語を介して、哲学、文学をするというむずかしい学問だが、かつて若手の秀でた学者が柳沼先生を評して、「僕らが5,6人束になってかかっても及ばぬような仕事を、ひとりでやすやすと、それも若い時分にやってしまった」と言ったことがある。今の日本では数少ない、なくてはならない存在だった。さまざまな訳書が岩波書店や筑摩書房から出版されているほか、軽妙洒脱な、学問を語ったエッセイもある。なかでも私にとり大変ありがたかったのは、2世紀初めのギリシャ人、アテナイオスが著した『食卓の賢人たち』という膨大な書物の完訳(京都大学学術出版会刊行、抄訳は岩波文庫にもある)だ。世界でもめずらしい古代の書物が、日本語で、しかも完訳で読めるという夢のようなことは、柳沼先生なくしてはかなわなかっただろう。髪に白いものも無く、年齢がはかれないほどお若く見えたのだから、訃報はあまりにも突然だった。

柳沼光枝夫人からのお手紙には、実に思いも寄らぬことが記されていた。夫人のお許しを得て、それをここに写す。戦争は終わってはいなかったことを知るために。

「柳沼は広島に原爆が投下された当時、初年兵として同市近郊の部隊に配属されており、被害救援のため当日夕方爆心地に入り、そこで3日間、“地獄を見た”

とのこと。

その直後、部隊全員下痢などで体調を崩し、柳沼もひどい痩せ方だったそうです。それでも当時はそれで一応おさまり、その後六十数年は普通に生活しておりました。ところが最近の研究で、それは潜伏期間に過ぎず、半世紀以上を経て初めて白血病を発症するケースが少なくないとのこと。柳沼はまさにこれに該当しているものと思います。三月以降体調がすぐれず、それでも五月末まではNHK文化センターのラテン語講座に出講し、一方、プルタルコス(プルターク)『英雄伝』の改訳に寸暇を惜しんで取り組み続けておりました。

体調の悪さには「骨髄異形成症候群による不応性貧血」という診断を受けておりましたが、六月半ばにそれが急性骨髄性白血病へと移行、本来は抗ガン剤治療が必要なのですが、高齢者には副作用によるダメージが大きすぎるとのことで積極的な治療が出来ず、対症療法として週一回輸血を受けておりました。血液検査の数値は回を重ねるごとに悪化の一途をたどり、家族は「この夏を越すことはむずかしい」と告げられておりました。(中略)

プルタルコスの全六巻の完訳はさすがに無理と断念して、引き継ぎの手配をし、訳了してあった第四巻の四分の一までは註をつけ終わって、フロッピーを送る用意をしたところで力尽き、七月二十七日に入院、一日おいて二十九日に脳内出血を起して亡くなりました。(中略)

日本最後の徴兵検査は「大正十五年十二月一日までに生まれたもの」を対象としたそうですが、柳沼はまさにこの日に生まれております。十八歳八ヶ月の初年兵でした。

あと一日でも遅く生まれていれば・・・と思わずにはいられません。」

柳沼作品―私の本棚から

アトリエだより (2008.10.13)

前倒しの人生

オーストリアで、大統領以上に有名で、極右のポリシーで絶えず物議をかもしていた、ケルンテン州知事、そして未来党の党首でもあったイェルク・ハイダー氏が、交通事故で即死というニュースが今流れている。選挙の度に、彼の巧みな演説に魅かれた若者や、農村の保守的な人々の支持率は上昇していたから、目の離せない存在だった。紙面はトップでその死を報じている。

オーストリアの選挙権は、選挙日に17歳になっていれば持てる。だから政治家はティーンエイジャーの取り込みに躍起となって、あの手この手の策を講じている。オーストリアでは18歳で成人だから、成人前の子供に選挙権が与えられていることになる。もっとも、刑罰の対象となるのも15歳から、と早い。こうした高校生たちが、政治家の演説に酔いしれて、彼らに国の将来を託しているのだ。

若者はたいてい18歳で親の家を出て独立することが許される。親が承知すればその前でもかまわない。親の同意なしに結婚できるのは、19歳から。一方が19歳に達していれば、その相手は、17歳以上であれば、双方親の同意はいらない。また、ふたりが合意した性交渉は14歳からフリー。15歳になれば当人同士でホテルにも泊まれるし、バカンス旅行も自由だ。しかも学生の場合は、国から家庭補助金を26歳まで、妊娠すれば27歳までもらえる。おまけに、アルコールとタバコは、学校では18歳までは禁止だが、それ以外の場では17歳になれば、構わない。

ウィーンの私の家の近くにふたりの知人がいる。ひとりは20歳、もうひとりは39歳。双子のようによく似た若いふたりだが、娘さんとそのお母さんだ。娘さんは18歳で親の家を出て、母親より多く稼ぎ、自立した生活をしている。男友達がよく泊まりに来る。近くに別に住む母親の方は、19歳で結婚。3人の子を生み、育て、離婚し、今は11歳の子供だけを手元で育てながら働いている。11歳の子の養育費は、生計を別にする父親が払い、17歳の子供の養育費は、やはり生計を別にする母親が払うことが義務づけられている。

ある夕方、そのお母さんが、私にこんなことを言った。

「この国は早くから子供を大人扱いするようになったわ。私だって19歳で結婚し、8年間子育てして、その後働き始め、すでに離婚までして、結婚生活も終わってしまった。じきに孫が生まれることもありうるのよね。11歳の子だって、もう何年かすれば家を出て行くでしょうから。私の人生は、もうすることが何も無いような気がするわ・・・私はとても年を取っている気分なのよ。」

39歳といえば、日本ではこれから結婚という人だっているほど若いのに、確かに彼女はしっかりして、年齢以上に見える。このように、ヨーロッパでは人間が早く自分を確立させる。自分一人で契約を結び、解除し、人生のパートナーを選び、職業につくから、青少年の弁護士まで存在する。しかし、ウィーンの離婚率も50パーセントに達しようとしている。しかも結婚した人しか離婚はしないわけだから、結婚せずに共同生活をしていた人の、ついたり、はなれたりは、この数字には含まれていない。ナチスの記憶がまだ鮮やかに残る現代に、その歴史を顧みず、極右の台頭がめざましいのは、こうした人生の前倒し傾向と無関係だろうか、と考えてしまう。

アトリエだより (2008.10.3

このHPトップページ、左手目次に新しい項目が加わりました。「三木裕子リサイタル」。クリックするとピアニスト三木裕子さんの、来年4月の東京リサイタルのお知らせが見られます。彼女の写真をクリックすると、彼女の演奏も聴けます。私自身、待望していた、すごく楽しみな東京公演なので、このHPでもキャンペーンをすることにしました。大勢の方のチケットのお申し込みを↓のアドレスでお待ちしています!

pan8@mac.com

三木裕子さんは、この「アトリエだより」2007.2.15「35年目のバターナイフ」に登場した。ザルツブルク芸術大学モーツァルテウムのピアノ教授という、日本人としては希有な地位にあり、インタナショナルに学生を指導する一方、その肩書きのイメージに似合わず、自身がすばらしく自由なピアニストでもある。「ヨーロッパの教授達は自分でもよくピアノが弾けるのよ。この程度は誰でも弾くわ」、と三木さんはこともなげに言うけれど、彼女のピアノはいわゆる「教授のピアノ」とはちがう。

休暇を利用して帰国する他は、もっぱら拠点のザルツブルクでの生活がつづいているので、演奏を聴く機会は少ないのだけれど、そのたびに彼女の音楽の深まりを感じてきた。テクニックもさることながら、このかんよく勉強したんだなぁ、と感じさせる、思いもかけないような、しかも説得力のある解釈、そして年追って熟していく人間性、天性の才能、何拍子も調和の取れた音楽としか私には表現できない。35年前は、将来が楽しみなピアニストだった。そして今では、ウィーンでも、日本でも、もっとも聴きたいピアニストになった。

彼女は東京芸大を首席で卒業するころ、ドイツへの留学を目指して、難関のコンクール、例えば毎日音楽コンクールや、海外派遣コンクールなどを次々と1位で通った。おまけの賞までもらった。その目的は、ドイツ政府給費留学生の審査に受かることだったという。ともかくドイツへ行きたかった。自分の目指す本当の音楽がそこにあると確信していたようだ。そして念願叶い、ドイツ、オーストリアで大学院を終えて、さらに大学助手になり、ついに教授資格試験までやってしまった。35年間とは半端ではない。「私は働いて、オーストリアに税金払ってるんだから、将来はちゃんと年金も受け取らなくちゃ!」と彼女は笑う。

私のHPを彼女に「間貸し」することにしたとき、彼女の写真も少し載せようか、と思いついた。彼女から送られてきたCDには、数百枚の写真が詰まっていた。その中からアトランダムに選んだものを掲載した。友人からデジカメを習い、ポケットカメラをいつも持ち歩いて撮っているらしい。でも、この腕前はすごい!彼女の日常生活は、かなりこのカメラではないだろうか。

その中の1枚。雪の降る路上で、客待ちする馬車。その馬にかけられた真っ赤な毛布にも、たてがみにも雪が積もっている。これを撮った彼女の傘もコートも雪が積もっていただろう。こういう一瞬を切り取る優しい目とセンスを彼女はもっている。

☆アトリエだより (2008.9.25)

ウィーンの夏は短い。だいたい一年は夏か冬か、暑いか寒いかのどちらかで、中間期というのがほとんどない。そして9月の声をきくと、夏はおわる。天気予報が、外で食事のできるその年最後の週末を知らせるのが、9月の10日ごろ。それまでの短い夏を人びとは昼も夜も外で過ごすのが好きだ。石の塊のような厚い壁の建物が、夏日に熱せられると、中にいるより外の方がずっと涼しいからだ。枝を広げた大木の下にテーブルを置いて自然のそよ風を楽しむのは、現代、なによりの贅沢かもしれない。

その夏が終わろうとするころ、ウィーン市庁舎の広場で、毎年、野外映画フェスティバルが連夜催される。オペラの録画などもある。2008年はカラヤンの生誕100年祭。この冬、楽友協会で行われた小沢征爾とベルリンフィルによる演奏の映画があった。といっても開演は「日暮れ」とあるのみ。

まだ日の明るい6時頃広場へ行くと、野外にかかる白色の大スクリーンの席にはまだ誰もいない。みんな、広場にたちならぶ露店で、テイクアウトの食事を楽しんでいる。ギリシャの店は、薄くふんわり焼いたパンに、鉄板焼きしたモンゴーイカとホタルイカを、レタスやトマトと一緒にはさんでくれる。ベトナム風と書いた店では、もっと薄いパンにサラダと焼いたエビをのせてくれる(表紙の写真。その他は近くの市場の野菜でも果物はお菓子屋さんで見たマジパン製)。

8時半をまわり、いよいよ暗くなってきた。人々も続々とスクリーンの前に並んだ席に着く。野外用の折畳みイスは座り心地はいまいちだが、満席状態。1000人ぐらいいるのだろうか。チケットはなし。市が主催する無料のイベントだ。夜風が冷たく感じる人には、フリース毛布も4ユーロで販売された。そしてとっぷり日が暮れた9時近くに、のんびりと夜空のコンサートは始まった。

ウィーンには市民が無料で楽しめる場所がいろいろある。しかもとびきり素晴らしい場所だ。ドナウ河の中洲や、アルテドナウの川岸、夜景の美しいウィーンの森へいくと、市民が大切にされているなぁ、と強く感じる。

☆アトリエだより (2008.7.19)

ウィーンに着いて10日が過ぎた。まだ暑いと感じる日がない、というのは、やはり気候の異変だ。数年前までは一年で一番暑いのが7月中旬だったのに。室内は扇風機もかけず、窓も開けていないのに、22度C.朝日を浴びてパソコンに向かっていると、戸口のドアを叩く音がする。隣りに住む坊やが、チョコレートケーキをうやうやしく両手に持ち、その後ろにお母さんも立っている。「僕が作ったの!」と。この親子は私が日本に帰国中に隣に引っ越してきたという。「こうやってお隣にご挨拶するのがこちらの習慣だから」とお母さんは言った。

日本では引っ越しの挨拶は習慣化されているけれど、ウィーンに住んでからは、はじめてのことだった。誰かが隣に越してきても、偶然顔を合わせた機会に挨拶を交わすだけだった。このお母さんはウィーン音大に勤めている職員で、「日本人が大好きなの。どうぞよろしく!」と言って、玄関先でふたりは帰って行った。

クーゲルフプフ型で13歳の坊やが焼いたというチョコレートケーキには、クルミがたっぷりはいっているのに、とてもまろやかでとても軽い。来客とあっというまに2切れずつ食べたところで、写真を1枚撮った。

写真に見えるカエデ形の粉糖ふるいは、近所の骨董屋で見つけたもの。銀製のハンドメイド。カエデの葉の中に細かい穴があいている。ウィーン子は、男女を問わず、ものすごくケーキ好き、しかも、甘いケーキにさらに粉砂糖をかける。でも紅茶漉しなんて無粋なものは使わない。食卓ではこんなエレガントな道具を使い、粉砂糖を振るい落とすのだ。だからウィーン子の必需品。この粉砂糖ふるいを骨董屋で見つけたときは、さすがウィーンのことだけはある、と感心したものだ。今では、粉砂糖は口に小さい穴が沢山ある、瓶詰めで売っている。

さてそのケーキの作り方は、子どもでもできるほど簡単だそうだ。マイルドな味は、バターでなく、サワークリームを入れるかららしい。バターよりずっといい味だ。その翌朝、玄関のドアをあけると、階段にそのレシピをかいた紙切れがおいてあった。マクシ(=マクシミリアン、坊やの名前)のカップケーキ、と書いてあった。お勧めの簡単ケーキだ。

♧・マクシのカップケーキ・♧

材料
卵 3個
砂糖 1カップ
薄力粉 1カップ
サワークリーム 1カップ
ココア 1カップ
ヘーゼルナッツ(パウダー)1カップ
サラダオイル 1/2 カップ
飾りの粉砂糖少々

作り方
1. 大きなボールに卵と砂糖少々を入れ、よく泡立てる。さらに泡立てながら、砂糖を少しずつ加え、全部入れる。
2. 残りの材料を加え、よく混ぜ合わせる。
3. 型にバターをぬり、その上に粉をふる。余分な粉を逆さにして落とす。
4. 生地を型に流し込む。
5. 180度Cに温めておいたオーブンに入れ、30−45分焼く。

*材料は全部半量でしてもよい。ヘーゼルナッツの代りにアーモンドパウダーを入れたり、ココア入りの生地と、入れない生地を半量ずつ作り、マーブルにしたり、といろいろバリエーションがありそう。

☆アトリエだより (2008.6.12)

シュトゥルーデルとは

シュトゥルーデル Strudel は、知る人ぞ知るウィーンのお菓子。東京ではまだ市民権は得ていないらしい。いろいろあるシュトゥルーデルのうち、最も人気なのが、アプフェル・シュトゥルーデル(Apfelstrudel =リンゴのシュトゥルーデル)と、トプフェン・シュトゥルーデル (Topfenstrudel =トプフェンのシュトゥルーデル)。トプフェンとは、取りあえず言えば、カテージチーズのようなもの。これはオーストリアでの呼び名で、ドイツではクヴァルクQuark 。両方ともドイツ語。

面白いのはHP表紙にあるような、この生地造りだ。シュトゥルーデルの皮をパイ生地で作るのは、邪道。本来紙のようにうすく、うすーくのばした、小麦粉の生地一面に、リンゴや、トプフェンやクルミなどをたっぷりのせ、のり巻きの要領で端から巻き込んでいき、オーブンで焼きあげる。それを好みの幅に切って食べる。

ウィーンではシュトゥルーデルを売っていないパン屋もコンディトライ(ケーキ屋)もない、と言ってもよいほどポピュラーで、コーヒーにコレ、という組み合わせ。表紙の写真は、オーストリアのチロルから招かれて来日したパンのマイスター、ヨアスト氏。青梅のパン屋兼カフェに、薪窯の使い方を教えに来た。彼の指導で、スタッフが生地を延ばしている。

彼は教えるのが実にうまかった。独特な延ばし方をスタッフに伝授。かれらはさすが器用な日本人、あっというまにマスターしてしまった。簡単なようだが、生地を破かずに、限りなくうすく引き伸ばすのは、むずかしいのだ。手つきをよく見よう。指で生地をつかんではいけない。手の甲でかるく触れるように延ばしていく。生地は小麦粉、塩、水、オイルでつくり、冷蔵庫で寝かしてからのばす。

テーブル掛けサイズの布地に打ち粉をして、その上に、この生地をひろげ、表面にバターをぬり、生の、いちょう切りのリンゴとパン粉、砂糖、シナモン、ラム酒などを混ぜ合わせ、一面に厚くのせ、端から巻き込む。

この写真はヨアスト氏のアプフェル・シュトゥルーデル。彼はこれをオーストリアで、夏になると1日2000個焼くのだという。焼き上がったら熱いうちにバターをたっぷりぬる。熱々もよし、冷たく冷えたのもまたよし、という私の大好物だ。

☆アトリエだより (2008.3.17)

ウィーンの私のアトリエの階上に植物学者のおばあさんが住んでいる。今朝ホールで出会うと、いつになく上機嫌で「いいお天気ね」、というごあいさつ。でも外は今にも雨が降りそう。庭を見ると、曇天の下であんずが、枯れ木に清楚な白い花をつけていた。「降ったり、晴れたり、また降ったり。それが4月のお天気よ。今年は順調だわ」と満足げに杖つく歩みを休めて、庭を眺める。もうとうに、芝生の中にはプリムラも咲き、垂れ下がるレンギョウの黄色が、庭の隅で存在を主張している。この家にすんで1年3ヶ月、おばあさんは顔を合わせるたびに怒っていた。天気が狂って、庭の土は埃のように乾いていると。太陽(陽射し)が昔とはすっかり変わってしまった、と言う。でも今日、おばあさんが初めてニコッとしたように、道を行くと、どの家の庭も寒さが緩んだとたんに、一気に春が押し寄せている気配だった。モクレンも、さあ咲くぞ、といわんばかりにふくらんでいる。

雑用に追われっぱなしで、このきれいなウィーンの春をたのしむ暇が無い。ストレス解消に、パン屋でうさぎを3匹を買った。毎朝1匹ずつ食べようと。今朝1匹食べて、残りの2匹を飾っておくことにした。しまってあった飾り卵を箱からだし、猫柳の枝につるす。ー この花芽は春一番に芽吹くことから、冬から春へ、自然の再生をあらわし、卵は、殻の中から生命が誕生することを意味している。ー その下にツゲの枝。これは雪の中でも枯れずに緑を保つので、やはり永遠の生命のシンボル。ー それから色を染めたゆで卵と、卵形のチョコと、プリンテンというウィーンの復活祭のパンを、ざるに入れてその下へ置いた。

さて、この2匹のうさぎをその前に並べた。なんとなくピンとこない。そうか、餌がないんだもの、つまらないわけだ。台所で3色スパゲティーを見つけた。それを積み上げてやると、うさぎはおいしそうにそれを食べはじめた、ように見えた・・・ので、写真を1枚撮った。

このうさぎパンは、小麦粉、卵、牛乳、イースト、バター、砂糖でできた、細長い1本の生地を折り畳んでつくります。

☆ アトリエだより(2008.1.2)

ウィーン市庁舎前のクリスマスの市の夜景。どこのクリスマスの市にもある、ハ-ト形のレ-プク-ヘン。グリュ-ワインの入ったマグカップをもって、歩き回る人々。ベイクドポテトの屋台で買ったハムとチ-ズを載せた一皿。ヨ-グルトソ-スがたっぷりかかっている。これがすごくおいしい!

☆ アトリエだより(2008.1.1)

グリュ−ワイン

ヨーロッパのクリスマスは12月24日から1月6日までとされている。この25日の4週間前から、広場にはクリスマスの市がたち、とくに夜店がにぎわいをみせる。

HP表紙の写真は、ウィーンの市庁舎前の広場。そこで特に買うあてはないけれど、目当ては「グリュ−ワイン」。香辛料がめちゃめちゃたくさん入った、甘くて熱い赤ワインや、オレンジジュ−スで割った、これも甘くて熱い白ワインをマグカップに入れてもらって、身が切れそうに寒い夜空の下を歩く。これは夜空の下で飲むに限る。

グリュ−ワインは、去年のクリスマスイブにもこの広場で飲んだ。その頃引っ越したばかりで、夫と一日中荷物のかたづけ。気づくと日はとうに暮れていた。

折角のイブだから、と市庁舎へ行ってみると、さぞ広場はにぎやかだろうと思いきや、屋台をたたみ、トラックに積んでいる店もあった。グリュ−ワインと、センメルのサンドイッチを買った。そのワインは紺色のマグカップに入っていて、モ−ツァルト・イヤ−にふさわしく、彼の肖像と音符がついていた。

サンドイッチを立ち食いしながら、ふとみると、この店も私たちにおかまいなくどんどん店じまいしている。そのうち、こちらを見向きもせずに、売り子たちは引き上げてしまった。「これ持って帰ろうよ!」と夫はものすごく得をしたと思い込んだ。こうして私たちはカップを握って帰宅した。翌朝、夫は日本へ帰国。「今日も行って、また持ってくれば?」と別れ際に言う。ところが25日のその広場には、もう屋台はひとつもなかった。

今年、またその広場へ友人と行った。同じ場所にまたグリュ−ワインが出ていた。今年のカップはモ−ツァルトではなく、天使がついている。友人が言った。「このカップ、返すと担保の2ユ−ロが戻ってくるのよ。」日本にいる夫に電話した。「な−んだ!」と彼はがっかり。「あなたの分も飲んだから、1個はあげるわね」という私の声が聞こえたのかどうか。

☆ アトリエだより(2007.11.10)

魔女のパン窯についての講演は、新しい会場で、ご参加の方々のおかげで、楽しく終えることができました。みなさんありがとう!

講演が終わると、いつもは質問、感想続出するのに、今回は会場がシーンと静まり返っていました。中世のヨーロッパで、魔女が悲しい運命を負わされ、火あぶりになったことに思いを深くしていたからでしょうか。映画「薔薇の名前」から、2,3のシーンも見ました。以前見た時はよくわからなかったけれど、私の解説で納得!とメールを下さった方もありました。

すっかり恒例になっている最後のひととき、誰かのつくったパンでブレイクには、3つのできごとがありました。All About のパンのガイド清水美穂子さんのレポートにくわしいことが出ています。

http://i.allabout.co.jp/users/20/diary/show/16779

清里プレドールの高橋みどりさんお手製の、魔女の家の「建材」(レープクーヘン製)と、「窓ガラス」(砂糖製)で、建て方を教わったり、魔女人形を見せていただきました。

栂池高原で「プチホテルシャンツェ」とパン工房を営む新井登志子さんのパン。長野から両手に下げて持ってきてくださり、天然酵母で種をつくり、長野の地粉を使った、すこしずつ味がちがう、いろいろなパンをご馳走になりました。

アンデルセンの林賀子さんと大内真理子さんには、シュトレンをもってきていただきました。ドイツのシュトレンに比べると、ずっとやわらかくて、私ははじめフルーツケーキだと思ったほど。真ん中にかわいいマジパンが入っています。アンデルセンの広報、「カリテ」やアンデルセン・タイムスには、私が研究を発表し始めた頃のエッセーがいろいろ載っています。このHP、「エッセー集」に少しずつ掲載の予定です。

☆ アトリエだより(2007.6.15)

語らぬ人・1・松原武司

NHKの名カメラマン、松原武司さんと出会ったのは、もう8年もまえ、当時私が制作中の「パンの民俗誌」のためだった。それよりずっと以前に別のフリーカメラマンとロケをした17時間分ものビデオテープが、編集段階で暗礁に乗り上げた時、「いい人がいるよ」、と友人の戸田桂太さんが紹介してくれたのだった。さっそく松原さんから仕事の見積書が届いた。友人に付き添われて、NHKテクニカルサービスへ松原さんを訪ねた。「見積もりはご覧頂きましたか」と彼はにこやかに私に聞いた。「ええ、それで私、3日間ぐらい気絶してました!」すると、「でも、もう起き上がったじゃないですか」と彼は笑って取りあわない。それからしばらくして、私の目を覗き込むように、「舟田さん、予算はあといくら残っているんですか?その範囲でやりましょう。私が編集したんでよければ、その分節約できますから」と。

その時は、彼が数々の賞を受けた、すごいカメラマンだということを私は知らなかった。だから、「あなたでいいですから、どうぞよろしく」なんて、後で思えばとんでもないことを言ってしまった。まず、どういう意図と筋書きでこのテープを編集したいか、コンセプトを書いて渡すように、と彼は言った。それを読みながら、17時間のテープの中から、コンセプトにふさわしい場面を1秒の何分の1かを切り取りながら、順次つないでいく、という気の遠くなる作業をくりかえさなければならない。ワンカットつなぐたびに、コンセプトを読み返し、確認し、またつなぐ、ということを繰り返したという。

そうした編集だけでなく、商品化の最後まで、誠実にかかわって下さった。17時間分の撮影の現場で、私はカメラマンに指図をしていたのだし、それがテープになった後も幾度も見ていたのだが、松原さんによって編集された場面を見た時、このシーンはどこにあったかしら、と思うことがたびたびあった。素人が見ても見えないものを、プロは見落とさないのだ。いよいよ編集ができ上がると、すぐさま、今度はそのビデオ2本を入れるパッケージの提案。彼はレイアウトのサンプルを手書きで作ってきた。いろいろパンの本も買い込んで研究したのだそうだ。それができると、こんどはビデオの宣伝のチラシづくりだという。挨拶文のサンプルを書いてくれ、それに加筆するように、と。チラシにつける商品の写真も必要だ。「スティール写真が専門の友達から、撮影を教わってきました」と言うのだ。NHKの誰かが、「あの松原さんがチラシなんかつくってる!」と目を丸くしたのも無理はない。そんなことは、彼の業務であるはずがなかったのだ。しかも最後に、預けておいた17時間分のテープを、私に返すべく、マイカーを運転して、拙宅へ運んで来た。そして私が感謝を込めて焼いたパンを、嬉しそうに受け取って帰って行った。

もともと彼はカメラマンであって、編集も、チラシづくりも仕事外のこと。お金のない私の仕事を完成させるべく、協力してくださったのだ。「私でよければ」と最初に言った言葉どおり、最後まで、どんな小さなことにも全力を尽す、その仕事ぶりと知恵の深さ、人間への感動は、私の終生のお手本になるだろう。その後、松原さんのロケ隊がウィーンに現れた。テーマはフンデルトヴァッサー。この撮影をとおして、対象と真正面から堂々と取り組むことを私は学んだような気がする。しかし彼は言う。「無いもの、これだけは撮れないんです。いろいろ考えているんですが、撮れないんですよね・・・」と。

その彼が、いよいよ6月29日に講演をする。(詳しくは「講演のお知らせ」にあり)カメラマンは裏方だから、番組の前面に出てくることはない。松原さんは、「生まれる以前から」つまりお母さんの胎内で、すでに映像に関心があったらしいと自己診断する。だから生まれて以来この道一筋40年。手がけた数々の番組が名作として我々の記憶に残っている。実は彼のレクチャーの件は、すでに7年もまえから持ち上がっていたのに、固辞し続けてきた。映像がすべてを語るわけだから、その上に自らが語って加えるべきことなどはない、と彼が思うのは当然なのだ。レンズを通して表現してきた人は、レンズのこちら側の自分でなく、向こう側の世界とその人間への関心がすべてなのだ。だからこのレクチャーの題もまた「テレビの現場 ~ 私が出会った人々」だという。裏方の哲学に徹したひとりのカメラマンが、レンズでなく、肉眼をとおして何を見たか、それをきかせてもらうまたとない機会がたのしみ。

語らぬ人・2・富田玲子

そのカメラマンのレクチャーが行われる場所は、「ドーモ・アラベスカ」と名付けられた阿佐谷にある個人の家。パテ屋の林のり子さんに誘われて、この家へ初めて行ったのは、確か2000年のある暑い夏の夜だった。ひと月1度、この家はオープンハウスとなり、人びとが集い、さまざまなテーマで講和会が開かれるという。その日は、出来立ての私のビデオ「パンの民俗誌」を見ていただきながら、私が話をさせていただくという段取りであった。その家のオーナー富田靱彦氏は、家中を案内して下さった。その家の何に、私は魅せられたのだろう、と幾度となく考えてきた。ヨーロッパには、訪問客に「お家にいるようにおらくになさってください」と言うならわしがあるが、私は初めて伺った家で、おのずとくつろいでしまった。自分がその夜のうちに帰るということさえ忘れかけたほど、根が生えてしまったのは、なぜだろう?

その家には角というものがない。厳しい境界というものがない。直線も少ない。手を触れて伝い歩きしてみたくなる、壁のおだやかなカーブ。それはときに小さいくぼみに私を引き込む。かくれんぼしてみたくなるような、隅っこがある。空間のあそびにあふれている。その暑い夜、庭に張り出した桟橋のようなデッキにも人がすわって話をしている。その向こうに何があるのか、舟が着くような気配がして、おもわず踏み出したくなるデッキ。暑い日はここを開けるの、と誰かが吹き抜けの空間にかかる吊り橋を渡って、その上の窓をあけると、涼風が私の髪を撫でて吹き抜ける。1階広間の中央にあるゆるやかな階段にも、人が足をのばして座っている。そこをのぼる。オーナーは、今は亡きご両親の寝室のドアを開く。格調のある、品の良いたたずまい、あるべきところにあるべきものがほどよくある、という納得。これが、部屋に落ち着きを与えている。ご両親在りし日のままに、すべてが置かれているようだ。その母上とは、日本初の女性大使として、デンマークへ遣わされた高橋展子さんよ、と後日友人から聞いた。

この愛らしい家には「ドーモ・アラベスカ」というアラビア風の名前が、この家の床暖房設計者によって付けられたそうだが、この家自体を設計したのは、富田氏の姉上、象の設計集団の富田玲子さんだ。この建築家に初めてお会いしたのもその夜のことだった。玲子さんは静かな人だ。彼女の表現方法は、ほとんどが優しい視線を人に向けることだけなのに、言わんとすることはよく伝わってくるからふしぎだ。時々、一言二言発するだけだから、饒舌に語られた言葉より、インパクトがある。出会ってからだいぶ後に、寂れた漁村を一緒に歩いたことがあった。彼女は手提げ袋からポケットカメラをとり出し、こわれかけた、波形の錆びたトタン屋根の小屋へ向けてシャッターを切る。そしてぽつりと「きれいな色ね」と。その屋根は余すところなく錆びて、赤茶けている。彼女の言葉につられて「錆色」という言葉を私が思い出していると、「そう、ブリキと言う言葉も、もうずい分長い間聞くことがなかったわね」と、一緒にいた林のり子さんが言う。玲子さんは黙って「うん」と頷く。このようにあっさり俳句的に短く表現する彼女のどこに、デカイ公共建造物ととりくむ意思とエネルギーとシャープさがあるのだろうか、と私はいつもふしぎになる。そうしては、また「ドーモ・アラベスカ」の記憶へ戻る。母親の懐の中にいるようにほっとする空間自体が、彼女の言葉なのだろう。言葉で語らぬ人たちは、それぞれの作品で雄弁に語るのである。

☆ アトリエだより(2007.4.13)

続・四つ葉のクローバー

その裁判官のお母様に初めてあったのは、それから何週間も経ってからだったが、1階と2階で文通が始まった。私の住まいの真上に一人暮らしのその方は、86歳。冬は調子が悪いと、お部屋に引きこもっておられたから、私は手紙と日本からのお土産を袋に入れて、2階へ登るドアのノブにかけておいた。おばあさまのお手伝いさんが通りかかって、それを運ぶはずであった。すると翌日、私の住まいの階段のそばに、小さな贈り物とカードが置かれていた。歳老いた震える手で、日本の桜の花びらを描いたハンカチがたいそう美しい、と書かれてあった。包みをひらくと、銀製の小鉢が入っていた。ペルシャ語が彫り込まれている。亡くなったご主人はペルシャ人だったそうで、「夫の故郷の記念品」という言葉が添えてあった。純銀に手彫りのペルシャ文字と模様のある小鉢。それがハンカチのお返しとは、あの日本語が書かれた名刺と同じように、私には驚嘆のできごとだった。その後私たちは、庭の植物について、いろいろな話を筆談した。まだ春の待ち遠しい2月、私の住まいの階段に、庭の小山の南面に、いち早く花をつけたレンギョウの枝が、小さな花瓶に挿して置かれていた。「春の兆しを見た」とカードに書かれていた。ある時は「とうとう菫が・・・」とか、「もう春はすぐそば」とか書かれたカードと花があった。おばあさまは私のドアをノックすることはない。気がつくと、いつのまにか置いてあるのだった。

4月12日、すっかり春めいた日の午後、おばあさまは庭の日だまりに座っていた。私は「あさって日本へ帰ります。また7月に来ますね」と別れを告げた。その翌朝、階段にまた一枚のカードが置いてあった。四つ葉のクローバーが3つ、4枚の葉をきれいに広げ、セロテープで貼り着けてあり、よい旅を!と書かれていた。まだフレッシュな緑の葉。昨日あれからこのクローバーを庭で探して、カードを作って下さったのだ。私はそれをバッグに入れて、翌朝飛行機に乗った。目をつぶると、あの庭が思い出される。半日で四つ葉のクローバーが何枚も見つかる、幸せを約束してくれる庭を、また夏に見られることが楽しみだ。

☆ アトリエだより(2007.4.10)

Merry-Widow-Cup

ゲストルーム最初の本格的な滞在客は、元女性編集者のKさん、その同僚のUさんとWさんだった。Kさんは私の古い友人で、好奇心に充ち満ちた人。そのうえ生活文化に造詣が深いから、来て下されば参考になる話がたくさん聞けるだろうと思っていた。友情からか、好奇心につられてか(多分その両方)、さっそく、ウィーンが春めくイースターの時期に10日間の予定で来訪。ゲストも私もみな同年代。気が合って、アトリエは4人の楽しい合宿状態になった。時間は飛ぶように過ぎ去り、出発が近づいた頃。朝出掛けた3人は、夜になってやっと帰ってきた。満足そうな顔でリビングのカウチに腰をおろすや、Uさんはなにやら嬉しそうにパッケージを開ける。出てきたのは
ティカップとポットのセットだった。半球形のカップの中に、ポットの丸い底部がすっぽりおさまり、この上下を合わせると、全体が卵形になる。目が覚めるような赤、黄、茶色の色彩りにこれまた負けじと、大きな目をした猫が描いてある。ポットにお茶を注ぐと、カップも同時にあたためられる。寒い日は、そのポットを両手で覆えば、手も温かくなるだろう。「これ、メリー・ウィドウ・カップっていうのよ」と彼女は言った。

Uさんは50台で未亡人になった、と短い言葉で語っていた。その後大学のワンゲル仲間と世界を旅するのが楽しみで、出費はそこへ集中していると言いながらも、おしゃれだし、料理も上手そう。「夫が亡くなってからも、彼のものを片づけもせず、引きずって生きてるの」と。淋しいでしょうね、何て言っても始まらない、と私は思って、何も触れずにいた。そこへこの「メリー・ウィドウ・カップ」だ。彼女はわれわれにこう宣言した。今度からこれで毎朝お茶を飲むわ。ティバッグでちゃちゃっとそそくさやるんじゃなくて、せめてお茶ぐらい、優雅にやるの!小さいことだけど」と。ウィーンに来て、彼女は何かを見つけたようだ。生活の細部が変わるということは、自分を再発見したからにちがいない。Uさんは日本に帰って、今朝も自分で名付けたあのカップで、ひとりお茶を飲んでいるだろう。きっと庭に花を植え、おいしい肴をつくって、ひとりで晩酌も楽しんでいるだろう。心から、メリー・ウィドウに乾杯!

帰国したKさんから手紙と写真が届いた。
「・・・「具沢山のスープ」「グーラッシュ」やってみました。大好評です。マーケットを歩いた日に塩パンを買って帰ったのが、乾パンの如くなっていたので、私案して小さいプラムを入れたプディングにしたら、ものすごくおいしくて、以前に日本の食パンでやったときとは大違い。これは大好評でした!パンがおいしいのね。という具合で、まだまだウィーンが続いています。明日、土曜日、やっと初めての公式の外出です。来週から「東京」に復帰するスケジュール。まあ、ゆっくりやることにします。写真や記録を整理していって、改めて「舟田さんのウィーン」に感謝です。ありがとうございました。」

「具沢山のスープ」は、到着日など、ゲストが外食できない日の夕食に注文で作ります。旅で外食がつづくと、野菜不足になりがちなので、そのために考えた、私の特製野菜スープ(パンと軽いオードブル付)。

☆ アトリエだより(2007.2.15)

35年目のバターナイフ

世界に知られるザルツブルク芸術大学モーツァルテウムで、ピアノ教授をつとめる三木裕子さん。彼女と知りあったのは、35年も前、日本の私の自宅だった。当時三木さんは東京芸大を首席で卒業したばかり、ドイツ国費給付留学生の申請をするために、私を訪ねてきたのだった。ドイツ語で書類を書き、審査に通らなければならなかった。所定の書類書きを手伝いながら、私は日本人とドイツ人の物の考え方がいかに違うかを力説し、それに留意してドイツ語の文を書かなければならない、と例を挙げて言った。すると彼女が「では、ベートーベンもそうなのでしょうか!」とショックを受けたようだった。もちろん彼女は審査にとおり、晴れてドイツへ1年の予定で旅立った。ドイツから来た最初の手紙に、彼女がついた先生は、レッスンが終わると、学生に「ダンケ!」と言うことに感激した、と書いてあり、ドイツ生活は快調に滑り出した。

1年の予定が2年になり、3年になり、滞在は35年に及び、それは今後もさらに続くらしい。そのかん、ときどき日本に帰国、コンサートを開いた。しかし、ゆっくり会うことは稀であった。彼女は、私が最も愛する演奏家であり、尊敬してやまない人間の魅力をもつ女性である。書きよこす手紙にはいつも心打たれる。演奏には力があり、彼女しか表現しえない、私には及びもつかない豊かな世界を共有させてくれるのだ。そして彼女が人に示す心遣いは、これまたふしぎな感動を与える。

ウィーンに開いたゲストルームの、最初のゲストはこの三木裕子さんだった。まだ客室にベッドも届かないうちに、さっそくウィーンフィルを聴きに、1泊の予定でザルツブルクから到着。一緒に夕食。そのとき彼女は、バッグからいそいそと包みを取り出した。「私、昨日ミュンヘンへ行ったので、何かいいお土産はないか、と探していたら、バターナイフを見つけたの!!以前、小さいバターナイフが欲しい、とおっしゃっていたでしょ。「あったぁ!」と思って買ってきたの」と、喜々として言う。たしかに、かつて私は小さいバターナイフが欲しいと、ずい分長い間思っていて、なかなか適当なものがみつからなかった、ということは、今もよく覚えている。しかしそれを彼女にも言ったとすれば、それも35年も前の話になる。私自身がすっかり忘れていた小さいバターナイフのことを、35年間も覚えていて、しかも私に会う前日に、ちゃんとそれを見つけてしまう。こうして彼女は私にまた感動をくれた。毎朝、私はこのバターナイフを握って、一日を始める。

☆ アトリエだより(2007.1.1)

四つ葉のクローバー

ウィーンにある私のアトリエ兼住居を、アルガルテンからヒーツィングへ移したのは、2006年も押し詰まったクリスマスの頃だった。その住まいの、田舎風かつノーブルな別荘風という、ふたつとない独特な雰囲気がとても気に入ってはいたものの、キッチン設備と浴室以外は何もない部屋に、いざ暮すとなると、何から何まで揃えなければならない。これまで私はウィーンで2度引っ越しをしたが、どの住まいも家具付きだったので、洋服ダンス、机、小ダンス、ベッドの他は、何も持っていなかった。

どうせ買うなら、この建物に合った古いものを集めよう。骨董屋やインタネットオークションで、一気に買いそろえることにした。私の大好きな、19世紀初めの芸術様式、ユーゲントシュティールの家具や調度を買い揃えよう。1月1日、といえば日本では、めでたい元旦。けれど私は、骨董というか、古道具というか、いやガラクタというか、それらが詰まった、山積みの段ボール箱とまだ格闘中だった。

すると、玄関の戸を誰かが叩く音がする。ガラス窓越しに、50がらみの紳士と10代の女の子が立っている。そして旧知であるかのように親しげに、私に微笑みかけるのだ。「私はこの家のオーナーで、○○ と申します。新年のご挨拶に立ち寄りました。この一年がよい年となりますよう!」と言って、小さな、小さな、四つ葉のクローバーが植わった植木鉢を、両手で捧げて差し出す。この家のオーナーは、階上に住む植物学者のおばあさまではなく、所有権はその息子さんに譲渡されている、ということらしい。私はその建物の管理会社と契約していたので、オーナーとも、そのご家族ともまだ面識がなかったのだ。その植木鉢には、シルクハットを被って梯子に登っている、黒装束の煙突屋の人形が差してあった。彼は茶目な目つきで、こんどは名刺を差し出す。ふとそれを見て、私は驚嘆した。日本語で名前が書いてあったのだ! 彼は言った。「私は30年前日本語を勉強したことがあるんですよ。もうほとんど忘れてしまいましたが。昨年夏には東京大学に講演に行ったんですよ。レベルの高い大学でした。」なので日本語の名刺を持っていたのだ。このオーナーは、日頃ルクセンブルクに住み、2ヶ月に1度、お母さんのお見舞いに帰宅するのだという。職業は、EU裁判所の裁判官だという。いや、そんな厳しい感じには見えない。気さくで親しみやすい人物のようだ。彼いわく、日本で一番感動したのは朝ご飯。朝から煮炊きしたものがたっぷり並ぶというのが、パンとコーヒー、チーズにジャムという朝食をするヨーロッパ人には、感激するほどの手間ひまかけたご馳走なのだ。「日本人のプロフェッサーに住んでいただけるのは、大変光栄なこと」と言って、家族を呼び、「これで私の家族全員と知り合われたことになります」、と笑う。私の方こそ素敵なお家に住めて嬉しい、と感謝して、お入り下さいと言いたかったが、何しろ室内は段ボールの箱ばかりで、まだ座る場所さえない始末。次には是非ゆっくりお寄り下さいね、たとえ夕方いらしても、「朝ご飯を」ご馳走しますわ、と私は約束した。

その数日後、私はその名刺を見ながら短い挨拶を、裁判官にメールした。
「Konnichiwa, ○○—san!」
と呼びかけた。すると夕方返信が届いた。
「Konbanwa, Funada—san!」
と言う書き出し。なんとなくゆかいな夜のひとときだった。

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